大池の歴史


明治23年 大正11年 大正15年
大池は現在の国道1号線(円六橋)まで細長くのびていた。円六橋から東部に水神池までのびる川がある。また、北西には吉田城方面にのびる川がある。つまり大池に注ぐ川と流出する川があった。国道沿いに集落はあるが、大池の周りにはほとんど見られない。
1.大池のはじまり

  1654年に吉田藩主小笠原忠知が郡代長谷川太郎左右衛門に命じて作らせたといわれている。
  水源は豊橋東部の水神池といわれている。大池の水は、吉田城下の外堀に入り、町中の下水道や灌漑用として遠く吉田方の水田にまで流されていたといわれている。
  その後、1888年に牟呂用水ができてからは、近くの水田に利用されるだけになった。
2.戦前の大池

  戦前は、今の商業高校のあたりに工兵隊が駐屯していた。大池にはボート屋が2軒ほどあって、若い兵隊がよく乗りに来ていたそうである。
3.戦後の大池

  戦後は黒真珠の養殖をしていたこともあるそうです。詳しいことはよく分かりませんが、イケチョウガイなどを使って作っていたのではないかと思われます。
 昭和40年頃から生活排水による池の汚れがひどくなってきたようです。この頃にサクラやツツジが植えられました。また、池の北側にはハスがいっぱい茂っていました。
 大池に流れ込む川や流れ出す川がなくなったのもこの頃です。暗渠になったようです。
 昭和42年に文化会館ができました。この頃から、池の北側が埋め立てられるようになりました。その結果、ハスやアシが次第に減少していきました。
 大池のシンボルでもある噴水ができたのは、昭和58年で橋は昭和51年にできました。
昭和23年 昭和47年頃 平成10年
戦前から戦後間もない頃にかけて、今の交通公園は動物園だったことが分かります。大池も昔のまま国道1号線に接するまでのびています。文化会館ができた頃は、中央の写真のようにハスがいっぱい生い茂っていました。この後、主に北側の埋め立てが始まり、大池は小さくなっていきました。現在は昔に比べ、3分の2くらいになっています。平成10年の地図の赤い線がだいたい昔の大池になります。地図上の赤いは向山小学校の位置です。
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